「四福音書のクリスマス事情~特にマタイに注目して」
はじめに
この講座も第五回となり、この回を含めて二回を残すのみとなりました。さて、現在まだ十一月と早めではありますが、今回はクリスマスと参りましょう。表題の通り、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書におけるクリスマスってどうなの?という主題でお話しします。マタイのクリスマス記事の詳細については、「テキスト研究」が別にあるはずですので、改めてそちらでどうぞ。
まず、主イエスの誕生について物語るクリスマス物語については、毎年恒例ということで皆さんもお馴染みでしょう。このクリスマス物語の源泉になりますが、実はマタイ福音書とルカ福音書だけからしか採用されていません。マルコとヨハネには、誕生物語はないのです。
ただし、民間伝承レベルのクリスマス物語では、マタイとルカの他にも、聖書正典には含まれない外典『ヤコブ原福音書』や、ジェノバ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが著した『聖人伝説』(通称『黄金伝説』)もソースとされています。例えばヨセフが高齢という設定や、幼子イエスを礼拝した占星術の学者の人数が三人で(マタイ二・七などでは単に「学者たち」と複数形)、それぞれ名前まで付けられているという設定などがそうです。こうした話題も面白いのですが、今回の講座にとって重要なポイントは、誕生物語的な記事はマタイとルカのみにしか含まれておらず、マルコ、ヨハネには含まれていないという点です。
「初めにことばがあった」から始まるヨハネ福音書
マルコとヨハネには誕生物語的な記事がないことは、初耳の方にとっては意外に感じられるでしょう。「本当にヨハネ福音書にはないの?」と思われる方は、ヨハネ福音書の冒頭を開いてみてください。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ一・一)という文言から開始され、詩的でミステリアスな言い回しが続いています。これは一般に「キリスト讃歌」と呼ばれ、後述のようにキリストの受肉の要素も含まれることから、クリスマスの聖書箇所として読まれることは多々あります。しかし、赤子のイエスには一切触れられていません。
ヨハネ福音書にとってのクリスマスは、「言(ことば=キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ一・一四)といういわゆる「受肉」の出来事に集約されています。すなわち、キリストである「言」は永遠の「初め」から「神と共に」存在される「神」なる方であるにもかかわらず、「人となって」私たちのもとに来られたという神学を提示しています。そのために、具体的な誕生物語を描くよりも、こちらの方が優先されたということですね。あえて言えば、受肉こそ「ヨハネのクリスマス」です。
クリスマスを書かなかったマルコ福音書
「いやいや、さすがにマルコにはなかったっけ?」と思われている方、マルコ福音書を紐解いてみてください。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」という宣言から始まり、「荒れ野で叫ぶ声がする」との旧約聖書の預言の言葉と共に、洗礼者ヨハネの登場をもって開始されています。そして彼が逮捕されたタイミングで、主イエスが宣教活動を始められるという物語の運びとなっているので、やはりマルコにもキリスト誕生物語は全く含まれていないということになります。
その理由について私の推測によれば、マルコはキリストが生まれてからの伝記物語を書こうとしているのではなく、群衆からメシアであると期待されたナザレのイエスの末路が十字架での悲惨な死であり、しかしそこにこそ真の救い主の姿がある!と主張したかったのでしょう。十字架死へと急転直下していく劇的展開を重んじているわけですから、そう考えると、誕生物語から長々と物語るよりも、バッ!とイエスが現れて、ドドっ!と話が動いて、後半から一気に暗雲立ち込め、ドーン!と十字架の闇が覆うという筋書きの方が躍動感があります。この点から、誕生物語はマルコにとってむしろ不要であった、ゆえに書かれなかったのだ、と私は仮説を立てています。一言でいえば、「マルコのクリスマス」とは、あえてそのような誕生物語を省いた末の「いきなり十字架への道」、とでもなるでしょうか。
マタイとルカでのクリスマス記事の配分
以上、クリスマス物語のソース(源)はマタイとルカ、ということでご理解いただけたでしょう。では、それぞれに含まれるクリスマス関連記事の配分をザックリと見ておきましょう。
マタイ:父ヨセフへの告げ知らせ。東方の占星術の学者たちの来訪。ヘロデ大王の恐れ。幼子イエスを礼拝する学者たち。ヘロデによる嬰児虐殺。エジプトへの避難。
ルカ:不妊のザカリアとエリサベト夫妻。マリアへの受胎告知。マリアのエリサベト訪問。ベツレヘムへの旅と出産。羊飼いたちの来訪。
毎年、教会学校でクリスマスに向き合っている先生方なら、「ふむふむ、なるほどなるほど」といった感じですよね。いわゆるクリスマス物語の各パートは、こんな風にマタイとルカの双方に散らばっているのです。そして、それらが時系列順にうまい具合に繋ぎ合わせられたものが、あのクリスマス物語であるということです。
マタイ福音書の誕生物語
ということで、我らがマタイ福音書のクリスマス記事の構成を、もう少しだけ詳しく見ていくことにしましょう。マタイの誕生物語は、アブラハムからイエスへと至る系図に始まり(マタイ一・一−一七)、次いで父ヨセフへの告知、イエス誕生と命名について述べられます(マタイ一・一八−二五)。その後、場面は変わって東方の占星術の学者たちの来訪物語となります(マタイ二・一−一二)。そして、ヘロデの恐れと企みを経て、ヘロデから逃れるためにヨセフ一家がエジプトへと避難し、最終的にナザレに移住したことをもって結ばれています(マタイ二・一三−二三) 。この一連の物語に共通して現れる要素が、「夢」(一・二〇、二・一二、一三、一九)と「主の天使」(一・二〇、二四、二・一三、一九)、そして成就引用です。「夢」「主の天使」「エジプト」という諸要素から見て、マタイは旧約聖書のヨセフ物語やモーセの出エジプトの出来事との対応関係を意識しています。旧約聖書との繋がりは、とりわけ成就引用によって示されています。成就引用とは、ある出来事が神の摂理の中で起こるべくして起こった必然的なことであることを、旧約聖書の引用をもって示すもので、マタイが好んで使う表現です。以前の講座における「マタイ福音書の神学」の回でも述べたもので、例えば、マタイ一・二二の「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言い回しが挙げられます。マタイの誕生物語全体の中では、他に二・一五、一七、二三に見られます。「やっぱりマタイ、旧約との繋がり重視だね!」、まさにそういう感じです。
マタイとルカにおけるクリスマス記事の相違点
マタイとルカの誕生物語には、互いに重複するエピソードはありません。同じエピソードが重なってもよさそうなのに、ちょっと意外な感じです。ということは、マタイとルカは、それぞれに伝えられていたエピソードを使ってそれぞれのクリスマス物語を組んだところ、たまたまそれぞれ逸話が被ることなく組み上げるに至った、と推理されます。
ただ、ここで問題が一つあります。マタイとルカから事実を再構成してみると、矛盾する点があるのです。ルカ二・四には「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と記されていることから、マリアとヨセフはイエスの誕生以前から元々ナザレに住んでいて、住民登録のためにベツレヘムに赴いて同地でイエスを出産したという設定となっています。一方、マタイの方では、イエスの家族は元々ベツレヘムに住んでいたけれども、「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配」していたために、イエスの誕生以後にガリラヤに移住したという書き方になっています(マタイ二・二二−二三「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方にひきこもり、ナザレという町に行って住んだ」)。
以上をザックリ図式化してみましょう。
マタイ ベツレヘム →エジプト避難 →ガリラヤ
ルカ ガリラヤ →ベツレヘム滞在 →ガリラヤ
なんということでしょう!二人の匠による記述が、違っているではありませんか!私たちが触れているクリスマス物語では、この辺を変に深掘りすることなく、ベツレヘムに旅してそこの馬小屋で主はお生まれになり、その後にガリラヤで住むようになったよね、という形でフンワリ済ませています。それで基本、問題ありません。ただ、この事実を知ったからには、やはりこのミステリーを謎解きしておきたいですよね。
そこでまず、両者、イエスはベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったという点では一致しています。ユダヤでは伝統的に、メシアがダビデの末裔としてベツレヘムより現れるというメシア待望が根強くありました。ミカ書五・一を引用してのマタイの記述が示す通りです。「王は…メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。…「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ…お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となる』」(マタイニ・四-六)。余談ですが、こういう旧約引用もマタイっぽいです。
他方、主イエスがガリラヤのナザレでお生まれになったかどうかは別として、「ナザレのイエス」という呼称の通り、長らくガリラヤで過ごされたことは既成の事実でした。ところが、以上の二点を成立させる筋書きが、統一されていなかったのだと思います。それで、マタイとルカはそれぞれ、この二点を繋げる作業に迫られていた中で、マタイとルカはお互い面識はありませんから、別々の筋書きが出来上がるに至ったのだ、と私は診ております。歴史的事実はどうであったかについては、今となっては時の彼方のことです。
結びとして
マタイとルカとの矛盾については、変に深入りせず、一点突破ならぬ、ベツレヘム生まれのナザレ育ちという「二点突破」で乗り切りましょう。ユスティノスやオリゲネスといった有名な古代の神学者たちも、細かいところは置いておきつつ、ポイント押さえてグイッといくやり方のようですから、これで間違いありません。
また、マタイの記事からクリスマス説教をする際は、いずれの箇所であれ旧約聖書を意識すると、識者が聞いても「うむ、よく準備されたマタイらしい説教」となります。 ではでは、ちょっと早めのメリー・クリスマス!
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。