2024年6月3日月曜日

F. ヤング『ニケアからカルケドンへ』、第3章「カパドキアの神学者たち」の翻訳

F. ヤング『ニケアからカルケドンへ』、第3章「カパドキアの神学者たち」の翻訳

Young, F. From Nicaea to Chalcedon-A Guide to the Literature and its Background, Philadelphia, 1983, p.92-99.

第3章「カパドキアの神学者たち」の翻訳。


 アレイオス主義の衰退は、テオドシウス1世が東方の正帝に任命されると共に始まる。379年のこの時期において、正統的信仰の擁護者は、カパドキア人の三人の司教(カパドキア三教父)らが数えられる。カエサレイアの偉大な司教であったバシレイオスは、存命中にこの輝かしい勝利の到来を見ることはなかったが、ナジアンゾスのグレゴリオス、そして彼の弟であるニュッサのグレゴリオスらは、意識してバシレイオスの業績を継承し、彼の影響を不朽なものにしたのであった。迫害期(アレイオス主義の台頭期)には、彼ら三人はニカイアの正統的な立場に身を置き、後に彼らの業績は、東方における三位一体論の恒久的な成立に決定的な役割を果たすことになる。


 しかしながら、こうした彼らの寄与のみによっては、彼ら自身の重要性を言い尽くすことは出来ない。彼らの著作の中で際立った特徴の一つとして、彼らの信仰的な言辞及び比喩的描写の豊かさ、そして聖書的、信仰的、教理的伝統の広範囲にわたる受容が挙げられる。そればかりでなく、三人のそれぞれは、教理的な発展のみならず、キリスト者の生活の様々な側面に独自の影響を与えた。恐らく、彼らの業績のうち最も興味深い点は、同時代の教会における二つの領域での緊張をもたらしたという証拠である。一つは、信仰と文化との間の緊張であり、すなわち、公認されたキリスト教界が承認せざるを得なかったグレコ・ローマン世界における異教文化である(異教的教養と信仰的それとの融合?)。今ひとつは、修道院制の発生と勃興によりもたらされた緊張である。これらは、カパドキアの教父たちのような人々が、教会が自身を世に売り渡すことなく、また世から砂漠へと隠遁するのでもない、双極のバランスを見出した結果であった。しかし、このバランスは、意図して為し遂げられたものでは殆どない。それは、それぞれの個人的な特性の帰結として、副次的に実を結んだものである。


 1.生涯

 カパドキア三教父の生涯は互いに密接に結び合っており、それは彼らの業績に関しても同様のことが言える。三人は良家で生まれ育っており、バシレイオスの一門からは実に、バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、(セバステイアの)ペトロスの三人を司教として輩出し、祖父祖母は殉教者、彼の母と姉も聖人となっている。彼の無二の親友であるナジアンゾスのグレゴリオスもまた、ナジアンゾスの司教の息子であったが、キリスト者であったその妻によって、彼は改宗させられている。故に、三人は非常に強い信仰をもった両親の許で育ったことになり、信仰へ転向するにあたっての心理的な葛藤を、三人の誰も味わうことはなかった。信仰に関するイメージ、表現、語彙、姿勢などは、第二の天性と言うべきであろう。


 とはいえ彼らの経験は、狭く偏狭なものではない。彼らの家族はキリスト者であったのみならず、カパドキアの名門に属していた。名門、富裕の一家は、最上級の古典教育を喜んで彼ら息子たちに施した。弟グレゴリオスは、この典では兄よりも若干恵まれなかったが、兄バシレイオスはカエサレイアで学んだ後、コンスタンティノープル、アテナイに遊学。カエサレイアで既に、彼はナジアンゾスのグレゴリオスと知り合い、アテナイで友誼を結んでいる。ナジアンゾスのグレゴリオスの教育上の経歴も実際のところ類似してはいるが、バシレイオスがコンスタンティノープルで学んだ一方で、彼と彼の兄弟であるカエサリウスらは、キリスト教教育の中枢であったパレスチナのカエサレイア、そしてアレキサンドリア-両地ともオリゲネスとの関連で知られている-を歴訪している。しかしながら、アテナイはナジアンゾスのグレゴリオスにとって熱意の地となった。彼はそこで20代の大半を費やし、学問の追求から自身を引き離すことは出来なかった。不承不承ではあったが、彼はバシレイオスに従って357年頃、カパドキアに戻る。最早彼は、友人無しの古いねぐらには耐え得なかったのである。


 そうした友情は、バシレイオスよりもナジアンゾスのグレゴリオスの方に重要な意味があったように見える。グレゴリオスは、より力にあふれた掛け替えのない親友(alter ego)に固執し、バシレイオスが彼を失望させたようなときなどは、彼は殊更に傷つくのであった。彼らの友情と反目の物語は、グレゴリオスの決断力の欠けた経歴を編み上げるに至った。彼ら親友同士は、共同体の生活と、学びの日々を通してもたらされた関心事を再び楽しむことは殆ど無かった。


 ナジアンゾスのグレゴリオスは、彼らがアテナイにいたときに共に“哲学者の生活"を共有するために交わした約束に、書簡の中で言及する。しかしバシレイオスにとっては、この約束は単なる学徒の理想主義でしかなかったに違いない。バシレイオスはカエサレイアに帰郷すると、世俗の名声を獲得し始め、修辞学者としての力量を急速に世に示しつつあった。彼がそうした評判を喜んでいたことは疑い得ないが、既に修道生活に身を捧げていた彼の姉マクリネ影響を深く受けて、すぐにこれまでの経歴を捨てて、バプテスマを受け、長い旅に出る。エジプト、パレスチナ、シリア、メソポタミアを遍歴しし、砂漠の修道士の許を訪れる。彼は修道院の確立のため帰郷すると、小アジアにおける修道院的な共同体の組織化に重大な影響を与え始める。


 今やバシレイオスは、友人からの援助を必要としていた。そこで彼はナジアンゾスのグレゴリオスに書簡を書き送り、彼が隠遁していたポントスに来て合流するようせき立てた。グレゴリオスもまたバシレイオスの要請に応え、バプテスマを受け改宗を果たす。これは、世俗的な成功を放棄したことでもあった。ところが彼は、禁欲生活に身を投じることに、ためらいを覚えていた。介助を必要としていた彼の老齢の両親が、それの口実にもなっていた。そういうわけで、彼はバシレイオスの許を訪れると、長く滞在することはなかった。彼の書簡には、偽りのない理想主義と、バシレイオスの非常な熱心をからかう思いとの間で揺れる、彼の二心が良く表れている。彼はたびたびポントスに戻りはしたが、滞在期間はやはり短いものであった。ナジアンゾスのグレゴリオスはバシレイオスと共に、Philocalia「フィロカリア」を編纂する。これは、オリゲネスの著作の抜粋集と言えるだろう。バシレイオスは恐らく、修道院の組織化のために著したRules「修道士大規定」(「修道院規則」)の初期の版に関して、友(であるグレゴリオス)と議論を交わしていたと思われるが、しかし修道院制度に関するグレゴリオスの立場は、なお曖昧さを残していた。なぜなら、彼はこれを理論としては理想的なものと見たが、実践上としてはそうは見なさなかったからである。


 とはいえナジアンゾスのグレゴリオスは、人々に禁欲生活を断念するよう迫られたときも、そうした言動に憤慨するほど、かの理想に対しての確信を抱いていた。彼が世俗から隠遁する自由を束縛されればされるほど、彼は益々そうしようとする強い衝動を、内に感じるのであった。一方、バシレイオスは、問題で揺れる教会政治の中に、身を投じていったようである。それはあたかも、彼の才能が踊る舞台としては、修道院はあまりに小さかったかのようであった。ナジアンゾスのグレゴリオスは、友(であるバシレイオス)がかの理想に対して明らかに不忠実であることに、より一層敏感になっていた。


 フラストレーションのたまるグレゴリオスを、最初の打撃が襲う。父に強いられて司祭の叙階を受け、(ナジアンゾスの司教となっていた)父の司教区管理を手伝うことを余儀なくされたからである。グレゴリオスは(父の許を)逃れポントスに行くが、彼はすぐに、新しい地位を受け入れるほかないことを悟った。既にバシレイオスは、修道院の壁の外側で活動しており、司教区内で活躍をし始めていた。359年、カエサレイアの司教であったDianiusとグレゴリオスの父の両名は、Riminiリミニの信条に署名するよう誤って導かれてしまう。ホモウシオスとホモイウシオスとの重大な差違を、あまりに僅かしか認識していなかったためである。両者それぞれ、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの影響のもと、自身の誤った信仰を放棄したのであった。神学的には初心の域を出なかったカエサレイアの新しい司教であるエウセビオスは、バシレイオスに自分のアシスタントになるよう説得する。そうして彼もまた、司祭に叙階された。ひとしきりして、エウセビオスとの関係が悪化し始めると、彼は修道院へと戻った。ところが、そこへ彼の友ナジアンゾスのグレゴリオスが双方の和解に一役買ったことにより、バシレイオスは再び職務に復帰をしたのであった。バシレイオスは、ウァレンス帝治下のアレイオス派最後の優勢期にあって、教会を擁護する必要があった。


 バシレイオスの弟、ニュッサのグレゴリオスの初期における経歴に関して、知り得る情報は僅かである。自身の学的感化に関して、兄バシレイオスに負うところが大きいと自ら語っている。確かに彼は、バシレイオスのように時の教育機関を遍歴することには与り得なかった。しかしながら、彼が当時、賞賛を博していた修辞学的能力については、兄とナジアンゾスのグレゴリオスに対し少しも引けを取ることなく、わけても哲学的な習熟においては両名をも凌ぐほどであったという。当初、彼は(修辞学)教師としての生活を送るが、後に、ナジアンゾスのグレゴリオスの手紙から知られるように、教会での経歴をなげうって、彼は突如として修辞学家・弁論術家に転向する。世俗の生活を送る間、Theosebeiaテオセベイアと呼ばれるキリスト教徒と結婚したようである。ポントスでの修道生活に加わるようにとの兄バシレイオスの懇願にもかかわらず、彼がかつて隠遁生活をしたという確たる証拠はない。しかし、修辞学家としての活動は長くは続かない。(ナジアンゾスの)グレゴリオスの書簡に影響されて(そうした生活に)幻滅を感じたのか、あるいは名門のキリスト教徒一家の出身であることが作用したのか、いずれにせよ長姉マクリネからの信仰的な感化は驚くほどであり、彼もまた罪の意識に敏感であった故に、まもなくして彼は世俗の成功を放棄したのであった。


 370年、エウセビオスが死亡すると、バシレイオスは彼の後継者と(して司教に)なる。政治的な素質とは、野心、他派との競り合い、圧力の行使を意味するが、バシレイオスは、教会がそうした種々の政治的圧力から免れ得ず、自身の選出も決して保証されたものではないことを悟る。彼もまた、決してそうした政治の世界とは無縁ではなかった。不幸なことに、彼は友(グレゴリオス)の(政治を好まない)感性を見誤り、グレゴリオスの招聘をより確実なものとするために、健康状態の悪化を装うことによって得た助力を、まったく犠牲にしてしまう。幻滅させられたグレゴリオスは、バシレイオスの活動に野心以外の何物も見出すことは出来なかったが、それにも関わらず、彼の父(ナジアンゾスの司教をつとめたグレゴリオス)の推挙により、バシレイオスはカパドキアの首都大司教区の司教となり、(二人の)いさかいは収まった。バシレイオスは、広く影響力を持ったこの老齢のナジアンゾス司教に恩義を受けたのだ。


 しかし問題は、彼の就任をもってしては終わらなかった。政治は敵を生む。彼は妬みと猜疑の眼差しに囲まれたのであった。こうした困難に加え、アレイオス主義を指示するウァレンス帝が、行政管理という表向きの理由を盾に、カパドキア地方を二つの州に分割したことであった。というのは、教区は慣例的に帝国の管轄区を踏襲することになっており、これにより、自らをカパドキアの第二首都大司教と宣言して止まない新しく誕生した首都Tyanaの司教Anthimusというライバルが登場することになった。それでもバシレイオスは自らの地位を確固たるものにしようと尽力し、ナジアンゾスのグレゴリオスはバシレイオスの推挙により、戦略的・政治的に重要なサシマの司教に就任する(371年)。しかしグレゴリオスは、バシレイオスの政治戦略上の駒に使われていることを知り、深く傷ついたという。そもそも4世紀は、やむを得ず司教になった者を多く数える時代であるが、彼以上にそうであった者は他にいない。そうした中、新たな司教が地方都市ニュッサに現れる。すなわち、バシレイオスの弟であるニュッサのグレゴリオスである。


 バシレイオスは必ずしも支持者に恵まれたわけではなく、友グレゴリオスは決してサシマの司教職に挺身して当たることはなかった上に、弟グレゴリオスに関しては政治的な資質を持ち合わせてはおらず、アレイオス派の策謀によって、教会の資金横領のかどで免職させられてしまう。一面では、バシレイオスは二人のそうした弱さに再三試みられ、別の面では、彼らの若き理想を踏みにじったバシレイオスの裏切りに友グレゴリオスは怒り心頭であり、弟グレゴリオスもまた、自らの政治的手腕の乏しさに苛まれたのではないかとも考えさせられる。とはいえ、バシレイオスの早すぎる死の後(379年)、二人は尊敬の念を抱きつつ、彼の業績を継承しようと努めたようである。


 司教としてのバシレイオスの業績は甚大である。実践的な面としては、病院や学校などの慈善事業の展開や、また彼の賜物である行政手腕を教区の運営にいかんなく発揮した。また、放縦の時代にあって倫理的リーダーシップをとり、そうした着想を、原始教会における慎ましい生活への回帰という土台に据えた。アレイオス主義を支持する皇帝治下にあっては、帝国の権力が敢えて直接関与することのなかったニカイアの正統的信仰の立場に身を置き続け、ウァレンス帝とわたり合ったことは伝説的である。教理的な面では、エウノミオスと対峙しただけでなく(『エウノミオス駁論』)、聖霊の神性に関する議論も取り上げた(『聖霊論』)。さらに挙げれば、礼拝改革、説教と聖書講解の卓越した能力等が挙げられ、いわゆる「大バシレイオス」と呼ばれていることもうなづける。


 ニカイアの立場が決定的な勝利を見る直前の379年、バシレイオスは死亡する。過度の禁欲生活が原因での、49歳の若さであった。370年代の前半、ナジアンゾスのグレゴリオスは母の死後、兄弟姉妹そして父と、次々に亡くしたのだが、彼の死はグレゴリオスに訪れた最後の深い別離の悲しみとなった。グレゴリオスは父の後、ナジアンゾスの司教職を継いだが(374年)、程なくして隠棲を好んだ彼の願いが叶って、セレウキアの修道院に隠遁する。その地で彼は病の床に伏し、バシレイオスの訃報に接する。


 しかし、セレウキアでの隠遁生活も長くは続かない。弱体化したニカイア派からの要請を受け、コンスタンティノポリスに復帰する。この50年間の殆どは、アレイオス主義が優勢を誇っていたが、テオドシウス1世の勅令によってニカイアの立場が確立されると、長くコンスタンティノポリスの司教座に着くようにとの周囲の願いも虚しく、彼は禁欲生活への復帰を願い出る。

 実際、彼の評判は響きわたっており、彼の輝かしい雄弁は復活聖堂の会衆を魅了し、『(5つの)神学講話』は、アレイオス派に少なからず打撃を与えた。彼はアレイオス派による暴力と策謀にさらされるが、ニカイア派の影響力は着実に増した。


 ニュッサのグレゴリオスは、長らく追放されていた司教座に復帰すると、姉マクリネに続いて兄バシレイオスも死亡したことを契機に、著作活動を盛んに始める。兄バシレイオスの業績を擁護し、エウノミオスとの論争を続け、引き続き聖霊論の確立に貢献した。ニュッサのグレゴリオスはバシレイオスに隷属的に従ったのではない。彼の論述を修正し、発展させているのである。しかしながら、彼のInstituto Christianoは、バシレイオスの『修道士大規定』が下地になっており、また、ヘクサエメロン(『創造の六日間』)に鼓舞されて、『人間創造論』が著されている。これは、先の『創造の六日間』に収められている九つの講話に対する補足的性格が強い。なお、真筆性に関しては問題を残している。381年、彼は兄バシレイオスの弟として、また後継者として、正統信仰の擁護者としてコンスタンティノポリス公会議に臨席し、彼の神学は審議に大きく影響を与えた。かつて指導力の欠落した悪しき財産管理者との悪名を知らしめた彼は、今や少なからぬ影響力を持つようにまでなった。


 この会議には、テオドシウス1世により最も偉大な真理の擁護者とうたわれ、臨席を要請された二人のグレゴリオスがいた。議会はナジアンゾスのグレゴリオスをコンスタンティノポリスの司教に任命し、彼はその後議長にも選出されるが、司教同士の政治的抗争に嫌気がさし、加えて彼の欠席の間にエジプトの代表団が到着したことに端を発して、彼の司教選任の合法性に異を唱え始めた者が出たこともあって、間もなくして彼は再び隠遁生活を始める。ニカイアの規則によれば、ある司教座から別の司教座への転任は認められておらず、はたして彼はサシマの司教であった。辞任後帰郷した彼は、父の後継者不在により空席となっていたナジアンゾスの司教任命を、病気の療養を理由に辞し、余生を詩の作成にあてつつ、390年頃に世を去った。


 もう一人のグレゴリオス(であるニュッサのグレゴリオス)は、正統信仰の柱石の一人とうたわれ、かつて小都市ニュッサの司教であった彼は、小アジアの教会を管轄するために任命された三人のうちの一人となっていた。これまで明らかにされている彼への言及は、394年にコンスタンティノポリスで開催された教会会議への出席を最後に見当たらない(ので、394年頃に没したと推定される)。彼の著作の質は特筆に値する。


 以上、カパドキア三教父の生涯は比較的知られているが、それは彼ら皆が、価値の高い書簡を数多く残していることによる。ニュッサのグレゴリオスの書簡は僅かに30通のみしか知られていないが、他の二人に関しては多数存在する。いくつかはバシレイオスに宛てて書かれたものとしても、バシレイオスの手紙は実に365通に及ぶ。一部の書簡は執筆時の特定が困難だが、他の書簡により彼の経歴の推移は再構成できる。第1-46番の書簡は彼の初期のもので、第47-291番は司教時代に書かれたものである。これらの書簡からは、バシレイオスの生活、関心を知ることが出来るのみならず、当時の教会に関する状況もうかがえる。個人的な事柄、教理的、教会における行政的問題も議論されている。これらの書簡は、当時の流麗な文体を駆使して記されているが、出版を目的とされたものではない。


 ナジアンゾスのグレゴリオスは、彼の若い支持者の要望によって自身の書簡を刊行した最初のギリシャ語作家である。グレゴリオスは、手紙とは簡潔、明瞭で慎ましく、引きつけるものがあるべきとし、美的なモデルとしてバシレイオスの書簡を引用している。244通の書簡が現存し、いくつかの書簡はバシレイオスに宛てたものも含む初期に書かれたものだが、多くは晩年に文学的作品として自覚して執筆されたものである。『手紙と詩』は、まさにそれに位置づけられる。少数のクレドニウスへの書簡は、アポリナリオスに抗しての重要な言説を含んでいる(実際に、これらの内の最初の書簡は、カルケドン公会議において公式採用されている)。アポリナリオス主義への反論を企図した38の詩は、詩的プロパガンダに帰される。しかし大多数の書簡と詩は、個人的であると同時に自叙伝的なもので、生涯の経過の中で経験した理想との葛藤が露わに示されている。

マモン

マモン Mammon


【要約】

富や金を意味するアラビア語で、マタイ福音書6章24節における「神と富とに兼ね仕えることはできない」というイエスの言葉を元に、民間伝承を通じて悪魔名としてグリモアに取り入れられた。後に金銭欲がデーモン化した用法が定着。


【本文】

 富や金を意味するアラビア語で、マタイ福音書6章24節における「神と富とに兼ね仕えることはできない」というイエスの言葉を元に、民間伝承を通じて悪魔名としてグリモアに取り入れられた。


 ミルトンの『失楽園』やブレイクの詩でも取り上げられ、金銭欲のデーモン化としての用法が定着した。


2024年5月31日金曜日

猫でもわかるマタイ福音書講座〜〜第3回「共観福音書問題」

  はじめに

 今回は、表題の通り「共観福音書問題」について解説します。成人の方の礼拝説教の中で、例えば「並行箇所のマタイでは……」とか「マルコではこうありますが、マタイではこう書かれています」といったセリフを耳にしたことはないでしょうか。本誌の「テキスト解説」でも、しばしば見られます。そういう時、きっと皆さんの多くは、ピンと来ないまでもなんとなく「マタイやルカでは同じような記事があって、それらを比較しているのだろう」と考えるでしょう。この背後には、通称「共観福音書問題」が横たわっています。そこで今回はこの際、この問題について一から十までまとめてお話ししたいと思います。マタイ福音書だけに関わる問題ではありませんが、「マタイ福音書で説教」となると、結局、マルコやルカとの比較は避けられませんし、そうした違いが生じてくる背景を知ることで理解も深まりますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。


 一 「共観福音書問題」とは

 まず、そもそも共観福音書ってなに?という話からしなければなりません。時は遡って三世紀とか四世紀以降のお話です。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書が書かれ、それらが正式に新約聖書正典として定められる前後の時代から、昔の人たちは不思議に思っていました。「なんか、三つの福音書って似てない?ヨハネは全然違うけど」と。確かに、例えば「嵐しずめ」と呼ばれる有名なイエスの奇跡物語を見比べてみると、ほぼ同じという箇所もあれば、表現が微妙に違ったり、さらには大きく異なる部分もあったりすることに気づきます。それから、三つの福音書の記述を抜き出して並べて、一枚の紙上で見比べられるようにと、「共観表」(「シノプシス」)というものが作られました。「シノプシス」は、「共に(同時に)見る」という意味のギリシャ語に由来します。「(三つの福音書が)共に観られる(一覧)表」ということです。この「共観表」から、三福音書は「共観福音書」と呼ばれるようになりました。

 では、いったいなぜ、三つの福音書が互いに似ていると同時に違ってもいるのか、その理由が問題となります。この講座の第一回で、古代時代からマタイ福音書が「第一福音書」と呼ばれていたと述べました。内容も一番とされ、各福音書の並び順も一番目だったからです。そのこともあって、アウグスティヌスなどもそう考えたようですが、きっとマタイが先に書かれて、後からその縮約版としてマルコが書かれ、、他方、アレンジ版としてルカが著されたのだと思われるようになりました。めでたしめでたし、これで疑問も解決とばかりに、それ以降、この問題を深掘りする人はいなくなったのでした。

 ところが、時はめぐり、近代化の波が押し寄せるようになった十八世紀後半になると、科学的視点で聖書を分析する動きが生じてきました。そして、長きにわたる眠りから、突如として「共観福音書問題」は目覚めたのです。


 二「共観福音書問題」の解決へ

 ここで、皆さんは学校の先生になったつもりで、三名の学生のレポートを採点するイメージをしてみてください。一部、ほぼ丸写しの部分が見られることから、レポートの「剽窃」を疑うあなたですが、言葉遣いが異なる部分もあれば、全くのオリジナルの記述もあります。一体、三人はどのように写し合いっこをしたのか。はたまた、四人目のゴーストライターがいるのか。あなたはこの事件の真相をあばくことができるか……共観福音書問題は、そんなミステリーに置き換えることができます。

 まず、レッシングとアイヒホルンという人は、当時の言語であるアラム語で書かれた福音書があって、マタイやマルコたちはそれを翻訳したのだ、と考えました。でも、翻訳ならば三人とも、もっと似ていてもよいはずですよね。

 次に、シュライエルマッハーは、メモ書きのような断片が散らばっていて、三人はこれらをそれぞれ寄せ集めて福音書を書いたのだ、と考えました。いい線いってそうですが、それにしては三つの福音書の記事を並べて見てみると、記事の並び順が妙に一致しています。それぞれがメモ書きを集めたのなら、もっと順序が違っているはずです。

 それならばと、今度はヘルダーとギーゼラーが、当初は口伝えの伝承(口頭伝承)であったものを、翻訳を経て三人が福音書に編纂したのだと推測しました。しかし、これは先のメモ書き説と大して変わりません。やはり、丸写しにしたような逐語的な一致と、記事の並び順の一致から考えると、どうやらメモや口頭伝承の単なる寄せ集めではなく、三者で見せ合いっこ的なことをしたのでは……という推理へと導かれるのです。

 そこで現れたのがグリースバッハです。古代の神学者も考えたところの、マタイが最初に書かれてマルコとルカがマタイをアレンジしたという伝統的な説を、近代版に甦らせました。ところが、これにはすぐさまツッコミが入りました。この推理では、マタイにあるとても重要な記事を、マルコやルカがいとも簡単にカットしていることになってしまう、その理由を説明できないからです。

 そうして暗礁に乗り上げ、事件の捜査が振り出しに戻ったある日、ラッハマンは三福音書の記事の並び順をしげしげと見ていました。そのとき閃いたのです。「事件はマタイで起こるんじゃない、マルコで起こっているんだ!」と。すなわち、マルコが最初に書かれ、マタイとルカがそれを参考にして福音書を書いたのだろうと。この推理にはヴィルケとヴァイセも同意しました。しかし問題は、マルコにはなく、マタイとルカにだけ見られるキリストの言葉がたくさん存在することです。しかも、記事の配列も双方似ています。「マルコ以外に、もう一つ、未知の書があるはずだ。」

 そんな彼らの思いを形にしたのが、ホルツマンです。彼は、マタイとルカが参考にしたプロトタイプマルコの存在と同時に、マタイとルカだけが参考にしたであろう、キリストの言葉集のような資料(通称、Q)の存在を想定しました。今日に至ってなお、その原文も写本も発見されていない全くの理論上の資料で、まるでミスターXのようです。それでもこの仮説には、「真実はいつも一つ。これがそれか」、と巷も騒然となりました。その後、マタイだけ、またはルカだけに見られる記事を別立てとする調整案が、ストリーターによって提唱されました。こうして、ついにこの事件は、九分九厘の解決へと至ったのです。「謎は全て解けた。」現在、学説の大半は、マルコが最初に書かれ、マタイとルカはマルコおよび先の言葉集と共に、それぞれ独自の資料を用いて著したという説に落ち着いています。

 マルコ+言葉集+マタイ独自資料 =マタイ福音書

 マルコ+言葉集+ルカ独自資料  =ルカ福音書

 

 三 実際に違いを見てみよう

 三・一 「嵐しずめ」の奇跡物語をサンプルに

 「四資料仮説」とも呼ばれる以上の説は、学問上の仮説に過ぎません。ただ、これまでの講座を通じて述べてきたことの一つは、マタイの特徴をしっかり掴みつつ、マタイをガッツリ語るために、マルコやルカとの違いをしっかり意識することが必要ということです。理由はなんであれ、共観福音書で同じところもあれば、明確に違っているところもあることは事実ですから、ともかくもその事実認識だけは欠かせません。

 さて、ここからは実例を取り上げてみましょう。最初に、先ほども触れた「嵐しずめ」を見てみると、マルコ四・三十五〜四十一では劇的に物語られている一方、マタイ八・二十三〜二十七では、ちょっと短くなっています。先の仮説に準じて言えば、マタイはマルコを参考にする際、マルコの尺を短くしたということになります。実際、他の箇所でもマタイは、マルコの物語描写や展開をシンプルにする傾向があります。マタイ先生が「もっとシンプルでいいんだよ……」と呟きながら自分の福音書を書いている姿を想像すると、なんだか笑ってしまいます。

 他には、マルコでは弟子たちが「まだ信じないのか」と主イエスに叱られているのですが、マタイ八・二十三〜二十七では、「信仰の薄い者たちよ」、原語のコイネー・ギリシャ語では「信仰のちっちゃい者たちよ」とあります。マルコでは信仰があるかないかの問題で、「まだ」ないとでも言いたそうです。そもそもマルコは白黒つけた考え方や言い方が好みです。他方、マタイでは信仰が量的に表現されていると。それならルカ八・二十二〜二十五ではどうかというと、なんということでしょう、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」となっています。信仰はあるけれども、どっかにすっ飛んでしまっているという理解です。以上の通り、信仰論が三者三様で異なりますから、どの福音書で説教をするかによって、語り口も違ってきますよね。

 もう一つ、マルコでは「おぼれ(死んでも)かまわないのですか?」というセリフが、マタイやルカでは「おぼれ(死に)そうです」と書き直されています。私は、「見捨てるつもりですか?」と言わんばかりのマルコのキツい言い回しが好きです。


 三・二 「安息日の主」の記事をサンプルに

 いかがでしょう。これが「利き酒(ききざけ)」ならぬ、「利き共観福音書」です。マタイだけとは言わず、マルコでもルカでも説教したくなりますよね。さて、紙面もわずかですが、あとちょっとだけコメントして終わりましょう。

 マタイ十二・一〜八は、元の箇所がマルコ二・二十三〜二十八で、読み比べてみてください。ところどころ、はしょられているでしょう?しかし最大の違いは、マルコの「安息日は、人のために定められた」が削除されている点です。マルコの言い回しだと、律法軽視に繋がりかねない危険がありますが、マタイはそれを修正して、律法は用済みではなく、キリストによって律法が完成される点を前面に出しています。また、「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない」という文言も追加されています。


 最後に

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。皆さんがこれからの説教者ライフで、「利き共観福音書」を楽しまれることを願っております。


「イスカリオテのユダとは何者か」

「イスカリオテのユダとは何者か」

 1.「ユダ」
・「ユダ」=ギリシア語の「ユーダス」=ヘブライ語のイェフーダー
・「ユダ」という名前の由来:族長ヤコブの第4子(創世記29:35)。よくある名前。
 讃えるという意のヤーダーが語源?←通俗的語源説明。語源は不明。
・イスラエル十二部族のユダ族。ソロモン王時代に分裂した南ユダ王国。
・「ユダ」→地域名、民族名の「ユダヤ」(ギリシア語綴り)という普通名詞に転用。
 「ユダヤ人」のギリシア語はユーダイオス(ユダヤに住む人、という意)。
・「ユダ」と「ユダヤ」は繋がっている。↓イエスを殺害した民族というのが第一理由
 後に「ユダヤ人」はイエスを裏切った「ユダ」にこじつけられ、ユダヤ人迫害へ

 2.「イスカリオテ」
 2.1.二つの表記が混在
 イスカリオート   マルコ3:19、ルカ6:16、マルコ14:10
 イスカリオーテース マタイ10:4; 26:14、ルカ22:3、ヨハネ6:71; 12:41; 13:2, 26; 14:22

 2.2.「イスカリオテ」の由来
説1 「イス」(人を意味するヘブライ語のイーシュ)+「ケリヨト」(ヨシュア15:25)
   →“ケリヨトの人” ?
   問題点:この表記の仕方の実例があるか? →ない
    実在の似た表記パターンの一つ「ナザレのイエス」=「ナザレノス イエス」
説2 ラテン語のsicarius(シーカリウス)に由来
   sicarius =sica(短剣)を持つ人
ローマ帝国とこれに迎合するユダヤの権威に対する反抗勢力(ゼーロータイ「熱心党」)に分類される過激派グループのラテン語表記 =sicarii(シカリ)
   よって、イスカリオテは“短剣を持つ人”→“シカリ派の人”という意味?
    有利な点:使徒「熱心党のシモン」の存在。
    問題点:シカリ派の存在は、ユダヤ総督フェリクス以降(52年以降)に確証。


 3.十二使徒の一人、イスカリオテのユダに関する聖書中の記述
 3.1.十二使徒の一人として任命されたユダ
マルコ3:13-19「13イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。・・・19それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」
マタイ10:1-4「4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」
 *新共同訳聖書で「裏切る」と翻訳されている原語はほぼ全て「引き渡す」という語)。

 3.2.ユダが裏切りへと至った過程
ヨハネ12:4-6「4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」
ヨハネ13:2「2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
*サタン(悪魔)がユダに関わる記述として、ルカ22:3、ヨハネ6:70を参照。

 3.3.イエスを「引き渡す」ための裏工作
マルコ14:10-11「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
マタイ26:14-16「14そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 15「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 16そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
*銀貨三十枚」:マタイ27:3を参照。伏線——ヨハネ12:5の香油300デナリオン銀貨の10分の1。1ヶ月分の賃金。安い。ゼカリヤ書の伏線。

 4.1.最後の晩餐において、ユダの裏切りを予告するイエス
マルコ14:18-21「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 19弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 20イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  *ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の場面。
・マルコでは、「まさか私のことでは?」と語るのはユダ以外の使徒たち。ヨハネでは、“愛弟子”(イエスにもたれかかる)が「それは誰ですか?」と問う。
ヨハネ13:21-31「21イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。 23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。 24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。 25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、 26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。 

 4.2.最後の晩餐以外の場面で、ユダの裏切りを予告するイエス
ヨハネ6:70-71「70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」

 5.イエス引き渡しの場面
マルコ14:43-45「43さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 44イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。」

 6.ユダの自害、または死亡
マタイ27:3-5「3そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 5そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」

使徒1:16-20「16「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 17ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 18ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 19このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 20詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』 」
・ユダ死亡の経緯は、マタイ27:5では自害、ここでは自害?事故死?審判死?
・ユダの死因は、マタイでは絞首死、使徒言行録(ルカ)では転落死。

 7.考察
 7.1.なぜ福音書によって記述が違う?
→伝承の源は一つではなく、流れが複数あるから。マタイやルカ、あるいはヨハネのように、自分で書き換えることもあり。

 7.2.聖書の記述は史実とは限らないが、ひとまずまとめたものが以下。
 ・使徒(十二人)の一人。   ・「イスカリオテのユダ」という呼称。
 ・ルカ、ヨハネ・・・悪魔に取り憑かれた
 ・金目当て・・・マタイ、ルカ   ・横領・・・ヨハネ  ・首をつって自害・・・マタイ
 ・不正な報酬で土地を買って、転落死、はらわた飛び出る・・・使徒言行録(ルカ)

 7.3.イエス殺害の動機に関する推測
・ユダがシカリ派の一員だったとは限らないが、「イスカリオテ」が短剣と関連する可能性はある。「熱心党のシモン」の存在から、政治的関心を持ち、熱心党的な政治運動に関わっていた人物だったことも考えられる。
・金目当て、横領していたという記述は、元々の物語に対する二次的な説明付加。
・悪魔が取り憑いたため、という記述は、1世紀後半以降の悪魔論の影響。
・結局、動機はわからない。ただし、ユダが政治運動や革命に関心があった場合、イエスを革命家として仰ぎ弟子入り、その後、イエスとの方向性の違いが露呈し、失望の故にイエス運動の幕引きを決意、イエス引き渡しを実行したのかも知れない。

2024年5月23日木曜日

コイネー・ギリシャ語

コイネー、コイネー・ギリシャ語(Κοινὴ Ἑλληνική)


 アッティカ・イオニアギリシア語方言を母体とする、ヘレニズム世界における共通言語。マケドニア王国におけるアレクサンドロス大王による公用語としての採用に遡源する。


 新約聖書の言語として知られており、やがて東ローマにおける公用語としても使用され、現代ギリシャ語へと継承された。


 その語彙と発音形態は現代ギリシャ語とよく通じている。



コイネー

アレクサンドロス大王以降、その支配下の全ての地域において公用語とされたギリシア語系の言語で、「コイネー(共通語)」と呼ばれた。

2024年5月9日木曜日

三十年戦争

三十年戦争 Thirty Years' War, 1618-48 CE 


 ルターの宗教改革(1517年)からおよそ100年後の1618から1648年にかけて、神聖ローマ帝国を中心に生じた一連の宗教的・政治的戦争。近代初の国際戦争。


 1618年、プラハ窓外投擲事件を契機として、ボヘミア王フェルディナント2世によるカトリック支配に対抗してのプロテスタント側の貴族による抵抗が始まった。1619年、フェルディナント2世は神聖ローマ皇帝に選出されるが、ボヘミア反乱軍はプロテスタント同盟の盟主プファルツ選帝候フリードリヒ5世を対抗皇帝として推挙した。


 1620年、フェルディナント2世はビーラー・ホラの戦いでボヘミア反乱軍に勝利し、カトリック化を推し進めた。


 1625年、デンマーク王クリスチャン4世がプロテスタント諸侯と協力して侵攻を開始するも、神聖ローマ皇帝側の勝利に終わる。


 1630年、プロテスタント側のスウェーデン王グスタフ2世アドルフは、フランスと同盟を組んで侵攻を開始。しかし、リュッツェンの会戦にて戦死した。プラハの和。


 その後、フランスがスウェーデンと共に侵攻したものの、カトリック側もプロテスタント側も疲弊を極めていたこともあって、ウェストファリア和平条約を締結して30年戦争は幕を閉じた。


アウクスブルク宗教和議

アウクスブルク宗教和議 1555年


 ドイツ南東部バイエルン州の都市アウクスブルクで開催され、神聖ローマ帝国の帝国議会にて締結された、カトリック(旧教)とルター派(新教)との間で締結された宗教的和解。


 カトリック側の神聖ローマ皇帝カール5世は、ドイツでのルター派による宗教改革運動に対して弾圧を加えていたが、弟のフェルディナントがカール5世から全権を委任されて開催した帝国議会にて、ルター派にもカトリックと同等の権利を認めることが決められた。


 ルター派教会も教会として承認され、諸侯には旧教または新教の自由選択権が認められた一方、旧教領内の諸侯が新教に改宗した場合は、旧教諸侯が後継者となる保留権も承認されるという不利な条件が課せられた。


 こうした歪みは、後の三十年戦争の原因の一つとなった。