聖書本文 マルコ10:17-22
17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
説教本文
今日は、キリストが復活されたことをお祝いする、教会の祝日です。
キリストが十字架にかかられて亡くなられた時、曜日で行くと金曜日となりますけれども、次の日曜日の朝に復活されたことになります。ですのでよく、「キリストは三日目に甦られた」などとも言われるわけです。
今回は、キリストが甦られた時のお話ではなくして、「永遠の命」ということについて述べたいと思います。キリスト教では、キリストの復活も大事なことですが、「永遠の命」ということもこれと関連して、大切な事柄として挙げられています。
では、その「永遠の命」とは一体なんでしょうか。それは、生きていることが永久に続くことではありません。それはもはや、果てしない苦しみです。永久と永遠は、違います。あるいは、輪廻転生して、私の前世はこうだったとか、次はこうなるとか、そういう風に続く命でもありません。全く違います。では、なんでしょう。
大人の方も子供も含めて、特にキリスト教歴の長い方、簡単に説明できるでしょうか?
まあ、色々と説明の仕方はあるでしょうけれども、一番簡単で、一番しっくりくるのはこうです。
永遠の命とは、神様を信じて生きること。永遠の命とは、神様と一緒に生きること。言うなれば、永遠の命とは、神様の子供とされることです。
神様の子供とされて、神様と一緒に歩む人生は、辛い時もありますが、最も幸せなこととされています。でも、物事には全て、始まりが、終わりがありますよね。万博に行って楽しくても、何かをして楽しくても、楽しい時には「終わり」というものが、つきものなのです。
でも、神様の子供とされた幸せには、終わりがないのです。生きていても、そしていつか必ず死んでしまうとしても、その楽しさは終わらないのです。だから永遠の命とは、永久の命とは言わずに、永遠の命と呼びますし、それが「永遠」という言葉の意味になります。
そしてまた、永遠の命の生き方というのは、特別なことをするわけでもありません。普通の生活です。寝る、起きる、ご飯、学校、仕事、趣味、遊び、寝る。以上。普通です。普通のことをするのです。
ただ一つだけ、一つだけ、必要なことがあります。それは、神様が見守ってくださるのをいつも感じている、思っている。神様が一緒にいるのを、感じている、思っている。これがなければいけません。感受性というものが、とっても大事。
きっとここで、懸命で熟練の大人の方は、「信仰が大事」と思われる方もあるでしょう。それはその通り。けれども、頑張って信仰信仰といっても、神様を感じられなかったら、それは自分に思い込みを植え付けようという自分の頑張りではないでしょうか。
ですので、大人も、子供も、神様を感じる感受性を大事にしましょう。今日の聖書でのキリストの言葉、「持っている物を捨てなさい」というのは、豊かさでもって鈍ってしまっている感受性を取り戻しなさい、ということです。
そうすると、「信仰が大事!」とこめかみに青筋立てて頑張ることも、感受性をかえって鈍らせてしまうことにもなりかねません。
もっと、素直になること。もっと楽になること。そうして、我が心、我が身を委ねること。それが大事ですし、永遠の命に至る、近道となるでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。