説教や聖書注解をする人ための聖書注解
マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)
概要
注解
29節
新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι οἰκοδομεῖτε τοὺς τάφους τῶν προφητῶν καὶ κοσμεῖτε τὰ μνημεῖα τῶν δικαίων,
「預言者の墓を建てたり」:ファリサイ派は、預言者の墓をその当時現在も建てていた(「家を建てる」を意味する動詞οἰκοδομέωの現在形)。それは、自身の敬虔ぶりを世に見せるためだった。
「正しい人の記念碑を飾ったり」:「正しい人(δικαίων)」は複数形なので、「正しい人たち」であり、また「正しい人」は「義人」とも訳される。こちらも、「飾る」(κοσμέω)という動詞の現在形が使われている。ちなみに、κοσμέωは今日の「コスメ」という語の起源。これまで展開された、外面ばかりを気にして内面が疎かという、彼らの偽善者的行為の一つ。
- 「記念碑(μνημεῖα)」:記念碑でもあるが、墓とも訳し得る。
30節
新共同訳
そして、「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」などと言う。
原文
καὶ λέγετε· Εἰ ἤμεθα ἐν ταῖς ἡμέραις τῶν πατέρων ἡμῶν, οὐκ ἂν ἦμεν αὐτῶν κοινωνοὶ ἐν τῷ αἵματι τῶν προφητῶν.
- 「もし先祖の時代に生きていても」:<Εἰ + 未完了過去時制>が使われ、「もし…だとしても」という仮定法的条件節が導かれている。「生きていても(ἤμεθα)」は、εἰμί(「である/存在する」)の未完了過去の能動態・直説法・1人称複数。
- 「血を流す側(κοινωνοὶ ἐν τῷ αἵματι)」:「仲間」「同伴者」を意味するκοινωνόςの複数形。直訳では「血において」は、流血させるの意。すなわち殺害を暗示。
預言者は、例えばエレミヤのように、しばしば為政者や民衆から迫害を受けた。ところが律法学者とファリサイ派は、仮に自分たちが当時存在していても、迫害する側には回ることはないと主張していた。しかし、その彼らは今や、イエスを拒絶し、殺害の準備を進めているという皮肉が込められている。彼らには全くそんな自覚はないが、自身を自分で告発しているも同然と、イエスは暗示的に指摘している。
31-32節
新共同訳
31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
原文
31 ὥστε μαρτυρεῖτε ἑαυτοῖς ὅτι υἱοί ἐστε τῶν φονευσάντων τοὺς προφήτας. 32 καὶ ὑμεῖς πληρώσατε τὸ μέτρον τῶν πατέρων ὑμῶν.
彼らの言葉とは裏腹に、洗礼者ヨハネやイエスを拒絶し、亡き者にする預言者殺しの系譜に彼らはあるのだと、イエスは非難している。
- 「子孫(たち)」(υἱοί):血統としての子の意味もあるが、セム語においては、性質を受け継いでいる者にも使用される語。
- 「自ら証明している(μαρτυρεῖτε ἑαυτοῖς)」:直訳では、「自分自身に対して証言する」「証する」。
- 「……をしたらどうだ」:人称代名詞+命令形となっていて、「あなたがた」という主体が強調されている。
「先祖が始めた悪事の仕上げ」:「悪事」には、「量り」「分量」を意味するμέτρονが使われ、罪や悪行の比喩とされている。直訳では、「あなたがたの父祖たちの量りを満たす」。
預言者迫害の歴史を、イエスを葬ることで完成させるがよいという預言者的宣告。預言者迫害の事例については2歴代誌24:20-22を、新約文書における言及については、1テサロニケ2:15-16を参照(「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」)。
33節
新共同訳
蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
原文
ὄφεις, γεννήματα ἐχιδνῶν, πῶς φύγητε ἀπὸ τῆς κρίσεως τῆς γεέννης;
- 「蛇よ」:創世記3章、天地創造物語における「蛇」が背後にある可能性がある。後のユダヤの伝承では、悪魔と同定されつつ、やがて神により滅ぼされるべき存在とされた。
- 「蝮の子らよ(γεννήματα ἐχιδνῶν)」:マタイ3:7において、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、洗礼者ヨハネが言い放った呼び方と同じ。蝮は悪の性質を暗示し、「子」であることはその性質を継いでいることを示唆する。
- 「どうして……逃れることができようか(πῶς ... φύγητε)」:アオリスト接続法を伴う反語的疑問文。「いや、逃れられることなどない」という否定の断言が含意されている。
- 「地獄の罰(τῆς κρίσεως τῆς γεέννης)」:原文寄りに訳せば「ゲヘナの裁き」。神の審判により、死の世界に落とされるという最期的状態が象徴されている。
34節
新共同訳
だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
原文
διὰ τοῦτο ἰδοὺ ἐγὼ ἀποστέλλω πρὸς ὑμᾶς προφήτας καὶ σοφοὺς καὶ γραμματεῖς· ἐξ αὐτῶν ἀποκτενεῖτε καὶ σταυρώσετε, καὶ ἐξ αὐτῶν μαστιγώσετε ἐν ταῖς συναγωγαῖς ὑμῶν καὶ διώξετε ἀπὸ πόλεως εἰς πόλιν,
イエス以降の教会に対する迫害が予告されている。
「預言者、知者、学者(προφήτας καὶ σοφοὺς καὶ γραμματεῖς)」:初代教会からマタイ時代の教会の宣教者たちを指す。
- 「殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち」:
- 「……殺し、十字架につけ、……鞭打ち…迫害」(ἀποκτενεῖτε καὶ σταυρώσετε, καὶ ἐξ αὐτῶν μαστιγώσετε … διώξετε):未来形動詞が使用されている。預言的には確定した未来。マタイが経験した迫害の様子も織り込まれているだろう。十字架刑に処せられたイエスを含む、初代教会時代の数々の迫害方法が列挙されている。
35節
新共同訳
こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
原文
ὅπως ἔλθῃ ἐφ’ ὑμᾶς πᾶν αἷμα δίκαιον ἐκχυννόμενον ἐπὶ τῆς γῆς ἀπὸ τοῦ αἵματος Ἅβελ τοῦ δικαίου ἕως τοῦ αἵματος Ζαχαρίου υἱοῦ Βαραχίου, ὃν ἐφονεύσατε μεταξὺ τοῦ ναοῦ καὶ τοῦ θυσιαστηρίου.
カインとアベルの兄弟間殺人(創世記4章)で殺害されたアベルが、最初の殉教者として位置づけられている。
- 「バラキアの子ゼカルヤ」:最後の殉教者とされている。ちなみに、ヘブライ語聖書の配列順序では歴代誌が最後になる。ゼカルヤ殺害事件は、歴代下24:20–22に記載されている。
20神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」21ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。22ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」
ゼカルヤの父親の名前が両者で食い違うが、総合的に見て、この記事が元の伝承と考えるのが一般的学説である。両者の相違は、伝承段階での混乱か、マタイのミスか、あるいは写本段階での派生に帰着するだろう。
36節
新共同訳
はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。
原文
ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἥξει ταῦτα πάντα ἐπὶ τὴν γενεὰν ταύτην.
- 「今の時代の者(γενεὰ)」:直訳では、「この時代」。イエスを殺し、教会を迫害することになる世代を網羅する。
- 「今の時代の者たちにふりかかってくる」:神の審判が預言されている。具体的には、紀元70年のエルサレム陥落・エルサレム神殿崩壊の悲劇と結びつけられる解釈が多い。
説教の結びの言葉として(マタイ23:29–36)
今日の箇所は、七つの災いの宣告の最後となる厳しいイエスの言葉です。律法学者とファリサイ派は、預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾りつつ、自分たちは先祖のように血を流すことはないと誇ります。しかし、洗礼者ヨハネやイエスを拒絶し、イエスを死へと追いやっていくことで、実際には彼らこそが預言者殺しの系譜を受け継いでいることが証明された。主イエスも、そう指摘されています。彼らの外面的な敬虔さは、内面的な不信仰と偽善を覆い隠す仮面にすぎません。
イエスは彼らを「蛇」「蝮の子ら」と呼び、地獄、その名称は「ゲヘナ」の裁きを免れることはできないと断言します。そして、アベルからゼカルヤに至るまで流された義人の血が、この世代にふりかかると預言されました。紀元70年のエルサレム陥落は、その象徴的な成就と理解されてきました。
しかしながら、この厳しい言葉は、単に過去のユダヤ人指導者への非難ではありません。今日の私たちにも突きつけられています。私たちは、外面的な信仰の営みに満足し、実は心の内で神を遠ざけていないでしょうか。預言者の墓を飾りながら、預言者の声を無視するような、皮肉な状態に陥ってはいないでしょうか。
主の言葉は、偽善を暴き、真実な悔い改めへと招いています。主イエスは、私たちのそうした罪のためにも、自ら血を流され、赦しの業を成し遂げてくださいました。そして、私たちを断罪のみするのではなく、むしろ赦しへと招いておられます。だからこそ、私たちは外面的な敬虔さではなく、心からの信仰と従順をもって歩むべきです。
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