2025年10月1日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:20-30

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ3:20-30


概要

新共同訳聖書が付している表題「ベルゼブル論争」というタイトルは、20節から30節までを区切るのが適切である。ただし、この箇所では、イエスの身内が「気が変になった」と思って取り押さえに来ている一方で、31–35節では、身内でない人たちがイエスから「家族」と呼ばれている。すなわち、前者と後者とで、「家族なのに理解しない者たち」と「家族でないのに理解している者たち」という鮮烈な対比が描かれている。その場合、20–35節をひとまとまりとして、30節までと31節以降に分けるのが適切である。

20節

新共同訳 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν τὸ πλῆθος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν.
  • 「家に帰られると」──自分の家ではなく、拠点としていた家のこと。
  • 「群衆がまた集まって来て」──「また」(πάλιν)は、これまでも群衆が押し寄せる事態が繰り返されてきたことを意味する。
  • 「一同は食事をする暇もない」──同様の記述は6:31にも見られる。「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」日常生活すらままならない状況が示されている。イエスの教えを聞きたい人々もいたが、多くは病気の癒しや悪霊払いの奇跡を求めて殺到していた。「安住できる場所もない」といった趣旨の言葉としては、マタイ8:20「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」がある。

21節

新共同訳 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
Καὶ ἀκούσαντες οἱ παρ' αὐτοῦ ἐξῆλθον κρατῆσαι αὐτόν· ἔλεγον γὰρ ὅτι ἐξέστη.
  • 「身内の人たち」──イエスの家族とされる。イエスの風評を耳にした身内が、活動をやめさせ、故郷ナザレに連れ戻すためにやって来た。節の後半では、その理由が述べられている。
  • 「あの男は気が変になっている」──文法上、この「気が変に」と言っている主語(3人称複数形)は特定されていないため、これがイエスの身内なのか、それとも第三者なのかは定かでない。新共同訳は後者と解釈して訳出している。いずれにせよ、「身内」はイエスを取り押さえるという行動に出ているのだから、彼らも少なからずそう考えていたと読むのが自然である。
 神の働きを行う際、聖書にしばしば示されるように、周囲がそれを理解してくれるとは限らない。社会、さらには家族でさえ、同意を得られず反対されることがあることを肝に銘じる必要がある。

22節

新共同訳 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
Καὶ οἱ γραμματεῖς οἱ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καταβάντες ἔλεγον ὅτι Βεελζεβοὺλ ἔχει, καὶ ὅτι ἐν τῷ ἄρχοντι τῶν δαιμονίων ἐκβάλλει τὰ δαιμόνια.
  • ベルゼブル(Beelzebul)──新約聖書で悪魔を指す呼称。他にはサタン、ベリアルなどがある。「悪霊の頭」とされている(マタイ12:24参照)。もとはペリシテ人の都市神「バアル・ゼブル」(Baal-Zebul、「崇高なバアル」の意)であったが、ヘブライ語ではこれを蔑称化し「バアル・ゼブブ」(Baal-Zebub、「蠅のバアル」)とした(列王記下1章)。なお、メソポタミアの主要都市神としてはマルドゥク(バビロン)、イシュタル(ニネベ)などが挙げられる。
 イエスは、人々に取り憑いたり病気にさせたりする悪霊を追い出していた。イエスに批判的な人々は、それを神の力による奇跡と認めたくなく、「悪霊の頭の力による」とこじつけて考えた。もしイエスの業が神の権威によるものだとすれば、彼ら自身が神の意志に逆らっていることになり、責めを負う立場になるからである。

23–25節

新共同訳 そこで、イエスは彼らを呼び寄せ、たとえを用いて語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」
Καὶ προσκαλεσάμενος αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς ἔλεγεν αὐτοῖς· Πῶς δύναται Σατανᾶς Σατανᾶν ἐκβάλλειν; Καὶ ἐὰν βασιλεία ἐφ' ἑαυτὴν μερισθῇ, οὐ δύναται σταθῆναι ἡ βασιλεία ἐκείνη.
 我々の社会にも、自分の本音を隠しつつ、表面上は正論を掲げて批判する場面がある。イエスは彼らの裏の心を見抜き、その矛盾を明らかにされた。悪魔が悪魔を追い出すというのは自己矛盾であり、国が内部で「争って」(μερίζω=分ける、分裂させる)いては成り立たないという比喩を示された。

26節

新共同訳 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
Καὶ εἰ ὁ Σατανᾶς ἀνέστη ἐφ' ἑαυτὸν καὶ μεμέρισται, οὐ δύναται σταθῆναι, ἀλλὰ τέλος ἔχει.
 すなわち、「サタンの頭が手下のサタンを追い出している」という理屈は筋が通らず、自己矛盾した論理であるとイエスは宣言している。

27節

新共同訳 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入って家財道具を奪うことはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
Ἀλλ' οὐ δύναται οὐδεὶς εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἰσχυροῦ εἰσελθὼν τὰ σκεύη αὐτοῦ διαρπάσαι, ἐὰν μὴ πρῶτον τὸν ἰσχυρὸν δήσῃ, καὶ τότε τὴν οἰκίαν αὐτοῦ διαρπάσει.
 押入り強盗の常套手段は、まず「強い人」を縛ることである。ここでの「強い人」とは、悪霊を支配するサタンを指す。そのサタンの力を封じなければ悪霊払いはできない。逆に言えば、イエスがサタンさえも封じているならば、それは神の権威によるほかなく、イエスが神の権威を帯びていることを示す。「悪霊の頭の力だ」という批判を逆手に取り、イエスが神の力を帯びる方であることを示す天才的な論理転換がここに見られる。

28節

新共同訳 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪や、どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν·
  • 「はっきり言っておく」──直訳では「アーメン、私はあなたがたに言う」。
  • 「人の子」──この文脈では、一般的な人々を指す。
 人間が犯す罪も、神への冒瀆の言葉も、すべて赦されるという神の赦しの無限の広さがここに宣言されている。しかし次節で、その例外が示される。

29–30節

新共同訳 しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、彼らが「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからである。
ὃς δ' ἂν βλασφημήσῃ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, οὐκ ἔχει ἄφεσιν εἰς τὸν αἰῶνα, ἀλλὰ ἔνοχός ἐστιν αἰωνίου ἁμαρτήματος· ὅτι ἔλεγον· Πνεῦμα ἀκάθαρτον ἔχει.
 この節は解釈上の難点が多い。
  • 「聖霊」──キリスト教の教義上、父なる神、子なる神キリストと共に三位一体をなす神。マルコにおける用例は、1:8「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」、12:36「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」、13:11「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊」であるほか、1:10,12でも“霊”として登場する。これらから、聖霊は人の内面に宿り、言葉や意志を与えて動かすものと理解される。
  • 「聖霊を冒瀆する者」──聖霊の働きを否定する者。この文脈では、聖霊の働きを悪霊の力と揶揄した人々を指す。
 解釈としては、①この言葉を当時の状況に限定し、イエスを揶揄した人々への警告と見る立場、②普遍的に適用し、罪の赦しを拒み続ける者・神の教えを曲解する者を指すとする立場がある。

説教のための黙想

この箇所でイエスを取り巻く人々は、神の働きを自分の目で見ながらも、理解と信仰に至ることができなかった。身内も批判者も、いずれも心を閉ざしていたのである。信仰とは「見たら信じる」という単純な話ではなく、心を開くことが必要である。
イエスは批判者たちの揶揄を通して、かえって神の力の真実を明らかにされた。サタンがサタンを追い出すことはあり得ず、悪の力を退けることができるのは神の権威によるのみである。
イエスのうちに働いていたのは、悪霊の力ではなく聖霊の力であった。その聖霊の力は私たちにも与えられ、信仰と理解を生み出す。イエスを否定することは、神ご自身の働きを否定することにほかならない。
聖霊を冒瀆するとは、神の恵みと真理を自ら拒み、赦しの道を閉ざすことである。聖霊のささやきを疑わず、その導きに耳を傾け、神の力を信じて歩もう。

礼拝説教の結びとして

 今日の聖書の言葉は、イエスを取り巻く人々の反応を通して、信仰の本質を私たちに問いかけています。イエスの身内でさえ、その働きを理解できず、「気が変になった」と言って取り押さえようとしました。律法学者たちは、イエスの奇跡を神の力ではなく、悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと決めつけました。
 しかし、イエスはその誤解と批判に対して、たとえを用いて静かに、しかし力強く語られました。「サタンがサタンを追い出すことはできない」。この言葉は、神の働きを否定する者たちの矛盾を明らかにし、イエスのうちに働く聖霊の力こそが、悪を打ち破る真の力であることを示しています。
 私たちもまた、神の働きを見ながらも、それを疑い、否定してしまうことがあるかもしれません。しかし、聖霊は私たちの内に語りかけ、導き、真理へと招いてくださいます。その声に耳を傾けること、それが信仰の第一歩です。
 聖霊を冒瀆するとは、神の恵みを拒み、赦しの道を自ら閉ざすことです。だからこそ、私たちは心を開き、聖霊のささやきに敏感でありたい。イエスのうちに働いていた聖霊の力は、今も私たちのうちに働いています。神の力を信じ、神の導きに従って歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きに信頼し、神の働きを喜びのうちに受け止める者として、主にある歩みを続けてまいりましょう。 

祈りの言葉(祈祷)

恵みとまことに満ちた主なる神よ。
御子イエス・キリストを通して私たちのうちに聖霊を送り、真理と命の光を与えてくださることを感謝いたします。
主よ、私たちはしばしばあなたの働きを理解できず、自分の思いによってあなたの御業を疑います。どうか聖霊の力によって私たちの心の目を開き、あなたを正しく見分ける信仰と謙遜をお与えください。聖霊の声を拒まず、あなたの導きに従う者でいられますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

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