2024年5月2日木曜日

【キリスト教史解説】キプリアヌス、キプリアヌスの疫病


ーーーレジュメーーー

 1 要約

西方教会の教父。ラテン教父。修辞学者からカルタゴの司教に。デキウス帝の迫害を忍び、ワレリアヌス帝治下、殉教。教会会議の開催、教会制度、組織の整備等、実践的領域に貢献。「教会の外に救いはなし」の言葉で知られる。



 2 生涯・神学

*西方教会の教父。ラテン教父。

 ←→東方教会、ギリシア教父。


*200年頃、北アフリカに生まれる。


*キプリアヌスは元々修辞学者。

 246年頃に回心。200年頃に誕生だから、中年期に回心。


*249年、カルタゴ司教に就任。異例の出世。


*デキウス帝による迫害下、教会を守り続ける。

 ワレリアヌス帝の迫害下、殉教。


 ・ローマ帝国時代、年がら年中迫害があったわけではない。

  →皇帝次第

  デキウス、ワレリアヌスは迫害を行った皇帝


*思想的にはテルトゥリアヌスを継承

 テルトゥリアヌスは神学を構築した一方、

 キプリアヌスは実践的。

  ー教会の制度的側面の神学的位置づけ

  ー教会会議の開催、教会制度、組織の整備など


*迫害による「背信者」「棄教者」の受け入れを巡り、

 ローマ教会と対立。

 棄教者の発生、復帰者の受け入れという問題に直面

  キプリアヌス =寛容政策

  ローマ教会  =非寛容政策

 

 キプリアヌスは、棄教者の教会復帰を願った


*キプリアヌスは、デキウス帝治下の迫害で殉教死までは

 至らなかったことを悔いていたが、ワレリアヌス帝時代

 に念願の殉教を遂げた。



 3 教会論ーー「教会の外に救いはなし」

*「教会の外に救いはなし」

*「教会を母として持たない者は、神を父として持ち得ない」

*『カトリック教会の統一』(251年)によれば教会とは・・・

 =正典、教理、典礼、聖職者を持つ見える教会

 =恩恵の唯一の機関ーー「教会の外に救いはない」


 ・元々この言葉は、非キリスト者により授けられた洗礼の

  有効性を巡って、教会によって立てられた司教・監督が

  執行する聖礼典においてのみ神の恵みは有効に働くこと

  を理由に、その洗礼を無効とした際の彼の論述を基盤として

  いる。


*ペトロは教会の担い手ではなく、教会統一のしるし

 →ローマ教皇はペトロの継承者、すなわち教会の最高権威者という、ローマ教会側の主張をやんわり否定。

*教会は法的機関であると同時に、霊的機関

*教会の本質は、キリストの犠牲の反復としての聖餐において確保される。

*カトリック教会の公同性と聖性という側面を主張。


ーーー解説テキストーーー

キプリアヌス Thascius Caecilius Cyprianus, c. 200-258 CE


【要約】


西方教会の教父。ラテン教父。修辞学者からカルタゴの司教に。デキウス帝の迫害を忍び、ワレリアヌス帝治下、殉教。教会会議の開催、教会制度、組織の整備等、実践的領域に貢献。「教会の外に救いはなし」の言葉で知られる。


本文


 西方教会の教父。修辞学者であったキプリアヌスは、246年頃に回心、249年にカルタゴの司教となる。デキウス帝による迫害下にあって教会を守り続けたが、ワレリアヌス帝の迫害により殉教。思想的には、テルトゥリアヌスを継承している。ただ、彼のように教理における輝かしい神学的構築を行った代わりに、キプリアヌスは教会の制度的側面の神学的位置づけをおこない、教会会議の開催、教会制度、組織の整備など、実践的な神学領域における貢献が大きい。また、背信者の受け入れを巡って、ローマと対立することもあった。帝国による迫害下にあって、棄教者の発生、復帰者の受け入れという問題に教会が直面していた時代であった。


(デキウス帝治下の迫害において殉教死できなかったことを悔いていたようであるが、ワレリアヌス帝時代に殉教の願いを叶えた。)


 教会の外に救いはなし


 「教会の外に救いはなし」「教会を母として持たない者は、神を父として持ち得ない」等の言葉で知られる。『カトリック教会の統一』(251年)によれば、教会とは、正典、教理、典礼、聖職者を持つ見える教会であり、恩恵の唯一の機関である故、「教会の外に救いはない」。元々この言葉は、非キリスト者により授けられた洗礼の有効性を巡って、教会によって立てられた司教・監督が執行する聖礼典においてのみ神の恵みは有効に働くことを理由にその洗礼を無効とした際の彼の論述を基盤としている。


 ローマ教皇はペトロを継承すると言われるが、ペトロは教会統一のしるしであって担い手ではなく、それは教会という法的機関であり、教会は法的であると同時に霊的でなければならず、それはキリストの犠牲の反復としての聖餐において確保されると主張した。カトリック教会の公同性と聖性という側面を展開。


キプリアヌスの疫病(キプリアヌスの病)ーー講話「死を免れないこと」について

 キプリアヌスの司教としての任地である北アフリカのカルタゴにて、感染症が流行した。彼の記述によれば、「「絶え間ない嘔吐に腸は震え、目には感染した血液の炎が燃え、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちる」という。

 当時、推定では天然痘が大流行し、ローマでは日に5000人が死亡したという。エジプトのアレクサンドリアは、人口の数分の1が喪失した。

 世は世界の終わりを悲観し、死と地獄への恐れから、キリスト教への改宗者が増加したという。キプリアヌスは、人々に恐れる必要はないと鼓舞した。

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